荻野吟子

俵瀬の「荻野吟子生誕の地」には石碑や銅像が建立され、近隣には吟子の資料を展示した「荻野吟子記念館」と史跡公園が整備されています。吟子の誕生日を過ぎるころには「吟子桜」と名付けられた早咲きの河津桜が花開く。吟子は「人その友のために己の命を捨つる、これに大いなる愛はなし」という『ヨハネによる復音書』の聖句を愛した。吟子の大いなる愛は薄紅色の花とともに、希望に満ちた春の到来を待ち望んでいる。

荻野吟子は、江戸時代末期の1851年(嘉永4)3月3日、利根川近くの幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)に生まれました。幼少から才女として知られ、若くして結婚するも予期せぬ病を発症し離婚。この治療の体験により女医の必要性を痛感し、医師になることを決意しました。吟子は妻沼の「両宜塾」の松本萬年に師事し、熊谷近郊に画室を構えた女流画家の奥原晴湖の影響を受けました。上京した後、東京女子師範学校で学び、私立医学校「好寿院」を優秀な成績で卒業しました。女性が医学を修め医師となる道が閉ざされていた中で、意義深い一歩を踏み出した。1885(明治18)年、吟子は旧来の制度など多くの障壁を乗り越え、医術開業試験を受験し合格。日本公許登録女医第1号となり、東京の本郷湯島で開業しました。吟子の努力が女性医師の道を切り開き、近代日本に一つの美しい花を咲かせた瞬間だった。吟子は医療に留まらず、キリスト教の活動や女性の社会進出を目指す運動に力を注ぎました。志方之善と結婚し、夫と共にキリスト教徒の理想郷建設のために北海道へ移住。地域の医療を進めたが、夫の病死など過酷な運命にも直面した。晩年は東京に戻り、穏やかな目線で患者と向かい続け、1913(大正2)年に激動の一生を終えた。

2019.熊谷ルネサンスより引用。